目覚めて真っ先に目に入ったのは、手の中の画面が真っ暗になった携帯電話だった。
ボタンを押せば、打かけのメール画面が現れる。
上掛けも毛布も掛けずに、ベッドの上に転がったままの状況に舌打ちをして俺は起き上った。
カーテンの向こうからは、もう既に高い位置に昇った太陽。
枕元の時計で時間を確認すれば、あと10分で11時だ。
「……クソ」
声を出せば、掠れ気味で喉も少し痛ぇし。最悪だ。
携帯電話に充電器を乱暴に差しこんで、俺は足早に浴室へ向かった。
――イライラする。
原因は明白。
高梨、あいつだ。あいつが昨夜、予定をドタキャンしやがったせいだ。
メールで一言、『明日はごめんなさい』とか抜かしやがって。
電話をしてやろうかと思ったが、なんだかんだあいつはこの俺を言いくるめるんで、だったら恨み節のメールでもと思って打ってるうちに寝てたらしい。
昨夜の一連の流れを思い出してたら、またムカついて来た。
高梨はここ最近、俺をないがしろにしている。
誰だか知らねぇが、あいつの大学時代の友達とか言う、俺にしたらどっかの馬の骨が高梨に相談を持ちかけて来てるらしい。
一回だけあいつが俺にその事を話したが、あまりにバカバカしい内容にそのまんま馬鹿じゃねーのと言ったらそれ以上は何も言ってこなくなったが。
てっきりもう片付いたもんだと思っていたが、高梨のお節介気質のせいでまだその面倒を引きずってる。
まさかその流れで、休日の予定まで潰されるとは想って無かったが。
「どこの馬鹿だか知らねぇけど、会ったら張っ倒す」
痛む喉を押さえて、吐き捨てる。
熱いシャワーを頭から浴びながら、絶対に意地でも今日は一日外で過ごしてやろうと俺は心に決めた。
「おはようございます、良いお天気だね」
「……ああ」
乗りこんだエレベーターで顔を合わせた相手に、俺の苛々が増幅した。
時々顔を合わせる、上の階の住人。名前は知らないが、見た感じは悪くないダンディな風格のオッサン。
……オッサンは総じて苦手だ。しつこい上に、俺の話を聞かない。
このオッサンは、威圧的じゃない、むしろ柔和な方だが裏が読めない笑顔が駄目だ。得体が知れないタイプ。
年齢や着ているもんから、多分会社の重役か上役なんだろうなと勝手に想像はしてるが、アテにならない。見た目通りの人間ばかりじゃねーのが、世の中だ。
休日のせいか、いつものスーツ姿でなくラフな格好のオッサンに背中を向けて俺は階数表示に視線を向けた。
年寄りは散歩が趣味だって言うが、このオッサンも例に漏れずなんだろう。
「お出かけですか?」
「……買い物と食事その他諸々」
「そう。今日は暖かいから、散歩日和だねぇ。一人で?」
「あんたには関係ないだろう」
俺は散歩じゃねぇし、と言いかけて止めた。
わざわざ知らねぇオッサンに、事情を説明してやる義理は無い。
それにしても毎回そっけなくしてる割に、このオッサンは懲りてねぇ。
百歩譲って俺の魅力がオッサンをも魅了したとしても、俺は靡かない。絶対にだ。
3階から1階なんてあって言う間に着く。軽い衝撃の後開いた扉から、俺はさっさと飛び出す……つもりだった。
それが踏み出した瞬間、後ろから手を掴まれつんのめる。
「何すんだ、おい!」
「ああ、ごめん。ちょっと気になって」
オッサンは苦笑と困り顔の混じった表情で俺を見つめると、腕を引いてエントランス脇――非常階段前に引っ張り込んだ。
「髪が」
「は? 髪?」
オッサンはジャケットの胸元から櫛を取り出すと、俺の頭を梳き出した。
面食らう俺に構わず、オッサンは勝手に髪の毛を整える。
そう言えばむしゃくしゃしてて、ドライヤーもセットも適当に済ませて部屋を飛び出してきたのを、ここにきて思い出した。
超近い位置で、普段あんまり嗅ぐ事の無い落ち着いた匂いに包まれることほんの数分。
逃げるタイミングをすっかり見失った俺は、されるがままオッサンに身を任せていた。
……落ち着かねぇ。でも、悪い気はしない。
優しい手つきは、嫌いじゃないと思った。
「いや、いつもふわふわしているのに今日はちょっとぺったんこで、気になって。ごめんね、余計なお節介で驚かせて」
「あー……いや、どうも」
掠れ声で答えたのは、喉の痛みのせいにする。
「ちょっと湿ってたせいか、いくら暖かくともちゃんと乾かさなきゃ風邪を引くよ」
両手で髪の毛を持ち上げて、最終的に手櫛で整えるとオッサンは満足げに頷いて微笑んだ。
「はい、あとこれを」
「あ?」
また手首を取られたと思えば、掌にポンと乗せられた小さな包み。
「のど飴。よければどうぞ。僕も実は貰い物だけど」
穏やかな声でそれだけ言うと、オッサンはポストを覗いて外へ出て行った。
その背中を見送って、オッサンが見ていたポストを何気に眺める。
部屋の番号の後に書かれた≪本屋≫の文字。
「……あのオッサン、本屋やってんのか」
せかっく整えられた頭を、自分の手でまた掻き回す。
その掌の中でカサカサ言う飴を、しばらく俺は見つめてみた。
オッサンには似合わない、フルーツのど飴。
緑色のそれを、俺は摘んで包みを破り口に放り込んだ。
少し、オッサンを見直してやってもいいかもしれない。
メロン味の飴を舐めながら、俺は通り過ぎるタイミングで《本屋》のポストに包みを放り込んだ。
結局一日、ふらふらと無駄に宛てもなく過ごした。
夜になって顔なじみのバーに出向き、酒を煽っているうちに居眠りをしてたらしい。
起こされ、タクシーに突っ込まれてマンションの前に帰って来た時には日付が変わる寸前だった。
タクシーに運賃を払って、外に出た俺の前に、見慣れた人影がマンションの入り口の前に佇んでるのが見えた。
俺にこんな無駄な一日を過ごさせた、張本人だ。
「随分ゆっくりなご帰還ですね、待ちましたよ俺」
「……何しに来たんだ」
「顔見たら帰ろうかなと思ってたんですけど、身体も冷えたんで部屋入れて下さい」
勝手に俺の腕を取って、中に入ろうとする高梨に俺は我に返って足を踏ん張った。掴まれていた腕も、振り払う。
「おまえ、ふざけんなよ! 一日俺を放っといてなんだその言い草は!」
「それは本当に悪かったですよ。でも、無事解決した……というかもう、あんまりその話題はしたくないです、今」
「なんなんだよ!」
「とにかく、もう克巳さん以外には振り回されません」
なんだそりゃ。
言い返そうとした俺を、背中から高梨が腕を回して抱き込んで来た。
「あー、やっぱり克巳さんがいいなぁ」
「”が”、ってなんだ! 何してたんだよ、おまえ!」
「秘密」
「高梨!」
「大丈夫、浮気とかじゃ絶対ないんで」
壁に声が反響するのに気付いて、高梨は俺の唇に指を1本宛てて来た。
黙れって言われるのにもムカつきながらも、しばらく忘れてた高梨の匂いが近いのに気付いて俺は大人しく声を呑みこんだ。
朝、あのオッサンに絡まれた場所を通り過ぎる時、一瞬だけ心臓が跳ねたのを誤魔化し、エレベーターを呼ぶ。
――別に何があったってわけじゃねーけど。
高梨にも秘密があるなら、俺もこれは秘密にしてやろう。
「何かニヤニヤしてまんせか、克巳さん」
「してねーよ」
「まさか一日、どっかで若いのナンパしてたんじゃないですよね?」
「秘密」
実際絡まれたのは、オッサンだけどなとは言わず。
俺達は降りてきたエレベーターに乗り込んだ。
俺を放っておいたツケを、どう払わせるか考えながら。
了
実は以前からどこかで発表しようと思っていた、本編には直接関係の無い裏設定なのですが。
どうしようもない僕に天使が降ってきたの克巳さんと、【Mind Sex】あるぱかさん宅の≪モトヤさん≫は、同じマンションの住人だったら面白いよねぇ…と。
ついにそれを、やってしまいました。
そして、今回イベントにて発行します【成り上がり】
こちらは、そんな我々でよくやり取りしているお遊びのある意味集大成のような内容となっております。
果たして高梨君は、一体何を一日していたのか。
それは、本編にてのお楽しみとなっております<(_ _)>